なんだか私は色んなことを勘違いしてたみたいだ。

いわば、生きることは修行か労働であり、自ら苦しんで生きづらくなって嫌なものを見て暮らさなければいけないと漠然と思っていた。

つい最近までそうだった。

生まれて初めて、家出して、私が忌まわしいと感じるもの全てから一週間離れた。

全くもって世界が違った。体感するところは気力の有無。無気力感に苛まれる頻度がものすごく低い。

まだ朝方は倒れていることが多いけれどそれ以外の時間ほぼ何かをずっとしている。強制されていないにも関わらず。

なにより、苦労しなくても、からだは生きているのだ。

これは私の中で革命的な出来事だった。罰さなくても苦しまなくても好きなことばかりしていても、死んだりしない。生かされている。


そして"忌まわしい"という概念も変わってしまった。

毎日我慢できるレベルだとしても、我慢と形容するならばそれは忌まわしかったのだ。

毎日ゆっくりゆっくり死んでいくような日々が人生であり生きるということだと信じていたが違うかもしれないと今は思っている。

本当はそうだったとしても、なんとか努力して違う何かを手繰り寄せられたりしないんだろうか、と思っている。


反対に、好ましいという概念も変わってきているのを感じる。

私は本当に美しいものが好きなんだと知ってしまった。目から入る情報はかなりを占めていて、それが荒んでくると気持ちが荒むのだった。

ものすごく率直な言い方をすると、例えば定期的に花を見るなりなんなりしなければいけないらしい。

私の中でメーターのようなものがあるようで、世間で淀んできたら美しいもので浄化しないと居るだけで荒んでくる。これは感覚的に確信した。

こうして書き連ねていくと母親の言う「社会では生きていけない」という言葉は的を得ていたかもしれないと思ってしまう。なんて難しい生き方を迫られているんだろう。

でも今日は死のうとは思わない。


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