愛
また愛について考えている。
ビジネス街のようなところのホテルにしてしまったから公園等で時間を潰せない。探せばあるんだろうけれど。
私が何かにつけてぶつかるのは「あなたは親に愛されているんだよ」という言葉である。
そう、私は一般的に見れば愛されているように見える。しかし実際のところ違うのだ。もうこの際だから、自傷かもしれないが紐解いてしまおうと思う。
まず前提として、両親は私を何かと勘違いしている。
こう言ってしまうとすごく怪しげな言葉になるが、もう少し噛み砕くと私の偶像を見ている。
その偶像が作成される過程はすごくシンプルで、"私自体"を暴言によって否定されたキーポイントが数回あった。
ある時は「普通なら良かったのに」という言葉で。
ある時は肩を掴み揺さぶって。
ここをあまりいじくり回しても仕方がない。
ただ、全力で私自体が現れるのを拒否して、病気だと言い、戸惑い尽くされたということ。
何度も何度も繰り返され、結果として「自我を出すとみんな悲しむ」という簡単な方程式が私の中に現れた。
私はさらに小賢しく、どの状態が一番愛されるか探った。結果的に、幼稚で、明るくて、よく笑い、難しいことはわからず、何もかも任せきりの、幸せそうな子供になりきることにした。可能な限りは。毎日毎日、内側で何が起ころうと。
死にたいんだとネットに書き込みその足で母に笑いかけに行くことなんてよくあることだった。
ここまで書いてみて思う。その子が愛されないわけがないだろうと。
愛される要素と愛されない要素を分析して、器用にやってのけたんだから、分析が間違えてない限り"その子"は絶対に愛される。ただの茶番とまで言える。
"その子"が愛されている様が世間から見ると娘が愛されているように見えたのだ。
もう少し掘り下げようと思う。"その子"は私ではないのかどうかだ。
結論から言うと私ではないだろうと思う。
今、「どんな娘でも娘は娘です」と言われたことを思い出している。
そんな綺麗なことあるはずがないのだ。
世界は、観念が全てだから。思考が全てだから。
思考から生まれた言葉はその人だけれど、計算された演技から生まれた言葉はその人ではない。
むしろ、徹底して自分を隠すように仕組まれた観念なのだから、徹底して自分ではないと言った方が適切と思う。
見てるかどうかわからないけど見ているなら言いたい。あなた達が1番忌み嫌い、病気と思い、嘆いたその様子が本当の娘だ。
残念ながらどれも全部娘だという簡単な理屈は通らない。"その子"は絶対に娘ではない。
ここまで掘り下げてしまえば簡単にわかる。
愛されてなどいない。
しかし世間において愛とは簡単に口に出されるものだなあと思う。
愛についてパッと言ってしまえるその短絡さには呆れてしまう。愛なんて複雑怪奇でどうにも理解に苦しむものなのに、側から見た…ましてやカフェの店主でさえ愛を語るのだ。
そしてその上で、このことを書くのは二度目になるが、何で愛を脅しに使うんだ、と不思議でならない。
愛って「お前は愛されているんだ」と押し付け縛り付けるものなのだろうか?
もし仮に、絶対に違うが、両親からのそれを愛だと仮定した上で、なぜ家出してはいけないのか?なぜ決別してはいけないのか?
片想いという言葉を知っているだろうか。愛は別に、いつだって応えてくれるわけじゃないこと知ってるだろうかと思う。
ましてや応えろと恐喝するものではないはずだ。
愛されているのに応えなかったら裏切り者なんだろうか。勝手に愛したくせに?寝耳に水くらいの話なんだけれど。
多分変に家族愛とか何とかで幻想を抱いているんだと思う。恋愛観とくればこんな歪んだ見方をする人はあまりいない。
ここ数日で本当に沢山の脅しを受けた。
でも、だけど、それでも、愛されているんだよと。
その言葉を聞くたびに絶望する。
だって愛されていないんだもの。そしてたとえ愛されていたとしてもだからなんだという話なのだから。
縋るように、「一生愛している」という姿を見て、ああ娘を愛している自分がそんなに好きなんだなあ、と思う。
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