自己像

 

気分の波に説明がつかないと思っているのは他人だけだ。私の中にはちゃんとした理屈も流れも存在している。これを経験してなお同じように行動するのならそれこそ化け物だと思っている。結局化け物ではあるけど。

医者のカルテにあった「全てを親のせいにしたがる傾向がある」という言葉を思い返して笑っていた。あの人を信じていた時間があったのが馬鹿みたいに思える。

例えばこういう時ばっさりと自分の中で期待や信頼が途絶えるけれどそれが極端だと感じる人はだらだらとその人に期待するんだろうか。少なくとも期待しているような行動を取るんだろうか。

心が伴わなくても行動だけでも切ってしまおうとしないのはなぜなんだろう。その人はもう私にはいらないのに。

親のせいにしたことは今までなかった。ただ、純粋にこういうことを言われた、こういうことをされていると伝えることが「親のせいにする傾向」なんだったとしたらどれだけ虐待が減るんだろう。

もう顔も見たく無いのだけど明日見に行かないといけない。

もうどうしようもないところまで自己がどろどろに溶けていたら環境が変わっても無理なのではないかと少し危惧している。

久々に自分自身を垣間見たのでとても気分が悪い。日頃から見抜いてる人気分悪くないんだろうか。

世間の人間に私のできうる限りの綺麗を提供する意味について考えてしまったらもうどうしようもなかった。笑った方が反応がいいので笑うことにして、意見は言わないで、相手を持ち上げて、共感して、そうやって世間にしがみついてどうにか悲願するようにしてついて回る意味って何なんだろう。

愛された気がするんだろうか だとしたら救いようのないところが増えることになる。

正式に診断されていないものの私をよく知っている人たちが境界例じゃないかという話を否定しないのでその傾向にあるんだろうとぼんやり考える。

死亡率高いやつばっかり集まるね。結局自分の精神に殺されるんだろうか

どうせそこまでいけないことも何となく察しがついている。

今度はどう感じているのかしつこく聞くからやっと絞り出した「死にたい」に「色々買ってあげたのに」と返ってきた夜のことを思い出している。

本当に、死にたいなんて考えたことのない人間のセリフだと改めて思う。一ミリたりとも思ったことがないんだろう。

私はそんな人間の方が恐ろしい。こんな世の中なのに。

そしてそうやって"良かれと思って"毒を吐いてくるところまで含めて恐ろしい。

良かれと思ってって本当に嫌いな言葉だ。全ては自己満足でしかないのに。


このめちゃくちゃな精神を抱えてどう生きるのかずっと考えている。

1時間もあれば正反対のことを考えられる。

急落の理解がされない。私の中で論理だっていたとしてもそれは側から見たら病的な何かなんだろうと思う。私の脳ではプチプチと一本一本糸が切られて行って最後の一本まで見届けて恐ろしい気持ちになっているのに全く伝えられない。

何で切れていっている時に何も言えないのか、最後の一本が切れるまでは「まだ一本あるからsosには早い」と思うから。全部切れて助けてくれと言った頃にはそれは急落に見える。

自分が馬鹿馬鹿しい。

親に、ましてや人間ごときに、自分を支払う必要なんてないのにね。21歳までそれを続けた罰が待ってる。前奏が大きくなってきたんだろうと思う。きっとここから始まる自己嫌悪はこんなものじゃない。忙しさが私を助けてくれている間でさえこうなのだから。

罰を与える人いうのは神様なんかじゃなくて私だ。私の本気の私に対しての罰が待ってるんだろうと思う。避ける方法ないんだろうか。これの言っている意味わかる人いるんだろうか。

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