錯綜する
少し忙しかった。しばらく書けそうにない感情に苛まれていた。特に悪いものではないので割愛する。
相変わらず聴覚過敏がひどくなったままだ。
でも精神状態は最悪のところから持ち直した感覚がしている。気のせいなんだろうか。他者から見るとまだ錯乱したようなものなんだろうか。
もし仮にそうだとしてもそれが私の核であるとしか言いようがないと今思った。
取り繕うことに長けているだけで中身はめちゃくちゃに入り乱れて、保つこともできずに震えて倒錯すらしているのが実体と最近知覚した。
自死に向かおうとしたり体を傷つけたり諸々の事も今までの抑圧からの反動であり決してストレス反応ではないのかもしれないとも思った。
25日に家が手に入る。今日は引っ越しの手続きを進める。
いよいよ一人になる。いろんなことを考える。
まあ今も一人だけど。
ぐるぐるに考えさせられてひたすらに憂鬱になり死を感じて、今は逆に静まり返っている。
全身でぶち当たったのは間違いじゃなかったのかもしれないと今やっと思える。
この長い時間になんの意味がと考えていたけど多分今までの自分との決別の時間であったと思う。
完全に切り離すため。まだ揺れるかもしれないけど、それでも過去と今はもう別なんだと脳に理解させるためのしきり。
色々と難しく考えすぎていたと思う。今は少し楽観している。
もう、何か思われることはないのだから、思われたとしても知ることはないであろうと思うから、それならもう生きてさえすればいい。
めちゃくちゃになっても仕方ない。生きる能力がないのだから覚悟している。
またホテルで世話してもらっても良いし何だったら入院させられてもいい。生き延びさえすればまた絵が描けるから。
もう生き延びること以外考えなくてよくなる。あともう少しで。
実体について考える。これに関しては複雑なので理解されるか難しい。
抑圧され指示され矯正されて安全な無害な大人しい何かになりきることができていたのだから、そのままいるのが安全ではないかとふと思った事もあるけど、結局私は自分を愛しているから、あるがままの姿を見たいと渇望している。
それが所謂普通から遠ざかり病気の形であろうと、隠され奪われしてきた自己像というものにとてつもない関心がある。
描くのも結局そこからきていると思った。自分を垣間見るのが好きだった。
醜くぐちゃぐちゃの自己像を美しく昇華して眺めることが何よりの生きがいなのだと。ナルシズムに終わりが見えない。
生き延びるという点に戻る。
今その観点から見て一番危惧する時期が2つある。
親と対峙する日と、家が完成して家で眠れるようになった日。
親と対峙する日は言わずもがなと思う。多分どういう行動を見せられても大変なダメージになるに違いないと思う。じわじわと回り回って侵食してくるような毒が追加されてそのまま交通機関に乗るのだから不安しかない。
あとは家が完成して安心した瞬間とそのあとの数日間。
今までの経験と心理的なものから見てここが一番不安で仕方ない。
家が仕上がるのは一見良いことに見えるが良いことなのが一番悪い。プツッと緊張の糸が切れる日がわかりやすく用意されていることが恐怖でしかない。
準備の代わりにたくさん想定をしている。
あまり自死欲求には向かわないのではないかと何となく思っている。そうであってほしい…
仮にフラッシュバックが酷くなるならそれもあり得ると思う。
一番危惧すべきなのは無気力感であるはず。
一人で家で無気力になったらどうなってしまうのか検討がつかない。
無気力と過眠を同時に引き起こすことがこれまで多かったから、ばかばかしく聞こえるかもしれないけれどそのまま起きなくなることを恐れている。
あとはひどい引きこもりを再発しないかどうかも気になっている。私の引きこもり状態は幻覚と幻聴を伴ってまともに外を歩けなくなるものだったから、再発されると本当に困る。自由意志ではどうにもならない外出困難が今起きると危機を感じる。
しばらく生き抜くことだけ考えて暮らさないといけない。
正直死にたいと思うことより生き抜けるのかと純粋に恐れるときのほうが恐ろしい。
ひどい希死念慮の最高潮のものは「自分の精神に殺される」という感覚だから、これも結局死にたいとも違う。
希死できる時はまだ夢見心地と私の場合はそう感じる。死に希望を持っているのだから。
希望すらなくなって恐れのみになった時に本当の恐怖が来る。
今はそれの前奏のようなものが起きている。
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