懐古
今日は神戸異人館をずっと散策していた。
今はマリアージュフレールティールームでこれを書いている。
こういった、何時なのかわからないような空間が好きだ。何時なのかわからない行為が好きだ。
古いものに囲まれてやっと世界を見つめてもいいような気がしてくる。
博物館等が好きかというとそうではなく、展示物のそれよりも、もっと身近な懐古趣味がある。
クラシック音楽をかけて、古い映画を流して、あるいは古い音楽機器で音楽を流して、歌いながら絵を描いて、時々紅茶を飲むような、なめたような人生の送り方が好きだ。好きなものは仕方ない。
絵の仕事についてふと考えていた。これからどうしていこうか。
体感として、良し悪しは別として今は絵が崩壊している、と思う。根本的な基本というものが消え去り、荒れ狂う精神でしかなくなった。今の状況から言って仕方ないことと思う。
でも一回更地にしたかったので案外願ったり叶ったりの流れではある。なんというか、近年の絵は納得していなかった。自白するなら、働くための絵だった。
時折感情の流れがうまく行き、特に非売の絵は素晴らしかったりしたけど、なんとも言えない守りに入った絵が多かったのではないかと思う。
とはいえ、今は荒れすぎている。自分で見ても胸騒ぎがするような絵たちになっている。身を任せるけれど、多分着地点はここではないと考える。
移住してからどういうふうに着地するか、かなり興味がある。自分自身に。
今欲求としてあるのは、懐古趣味と精神世界の掛け算のような構造。
どろどろに溶け合い、サイケデリクス的であり、その上でロマンチックであったらどうなるんだろう。
油彩に戻ってもいい。もうあんまり、急ぐように消費するように絵を描きたくない。
これに関しては考えなければいけないが、ギャラリーに所属することも辞めようかと考えている。
発送や取引のノウハウは手に入ったし、急ぐように描かないなら取引は大変ではないし、所属する意味がもうあまりないと言える。
ここだから書くが、私はギャラリーに作品の制限をかけられている。
そのまま引用するなら「過度なゴア表現を控えてください」というもの。
これからそういうものを描くのかわからないが、描かないかもわからない。
そしてなぜ、ギャラリーに従い描くのかわからなくなった。
話を戻す。
私は表現としてのアートも好きだしインテリアとしてのアートも好きだ。
一つ一つ、愛でるように作り上げていく作家たちに憧れるならなぜ私はそれにならないんだ、と今は感じる。
なりたいものとなれるものは違うんだと言い聞かせてきたけれど、憧れが止められない。
現実問題なれるんだろうか?あの独特な表現者たちに。
絵画・懐古趣味を活かしきれていない今の表現に焦っている。こうしたかったのではないと叫び始めている。
私の魂は本来こんな形ではないしこんな速度で描くものではないしこんな売り飛ばされ方をするわけじゃないと。
また誰かに怒られそうだけれど私はこういうどうしようもない人間だ。恵まれてるものを振り払って理想に向かおうとするような。
でも、だから表現者としていられると信じてる。
絵がどうなっていくんだろう。結局、人生でそれ以上の楽しみはない。
絵は辞めない。でも、変えていく。
家が定まったら自分のために一枚描こう。
そしてやっと働こう。
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